グレッチ/GRETSCH/ギター/ナッシュビル/6120
100年以上の長い歴史を持つグレッチ社。
様々な紆余曲折を経て、グレイト・グレッチ・サウンドを確立した。

グレッチ【GRETSCH】社の歴史
GRETSCH/グレッチ/ナッシュビル/6120
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グレッチ社の歴史

フリードリッヒ・グレッチ(Friedrich Gretsch)1872年、フリードリッヒ・グレッチ(Friedrich Gretsch)が16歳のとき、家族と共にドイツ中央部のマンハイム市からアメリカに移住。
フリードリッヒはドラムやバンジョーを製造する会社(Albert Houdlett&Son)に就職。

1883年、フリードリッヒは会社を退職。自らの会社「Fred Gretsch Manufacturing Company(グレッチ社)」をブルックリンのミドルトン・ストリートに設立。
当初は地元の楽器卸商に向けて、ドラム、バンジョー、マンドリン、タンバリンなどの製造を始める。

グレッチ社1895年4月、会社は急成長していたが、創業者のフリードリッヒが故国ドイツを旅行中に39歳で急死。
長男であるフレッド・グレッチ・シニア(Fred Gretsch Sr.)が若干15歳で後を継ぐ。
ちなみにフリードリッヒには7人の息子がいる。
1900年、グレッチ社はヨーロッパからの楽器輸入を始める。
グレッチ・シニアの精力的な活動の甲斐あり、1916年にグレッチ社はアメリカ一の楽器会社となる。
ブルックリンのブロードウェイ60にある10階建てのビル全てを倉庫と工場として使用するまでに成長し、グレッチ社は当時アメリカで最も成功した楽器輸入業者・製造業者との評価を受けた。



1925年、グレッチ・シニアは事業拡大のため、ヨーロッパへ出向く。グレッチ社の規模は国際的になり、フランスとドイツに支社を、ニューヨークとシカゴにショールームを開設した。
後に活躍するグレッチ・シニアの息子ウィリアム・ウォルター・グレッチ(William Walter Bill Gretsch)はこの間秘書と会計係を務める。

1927年、グレッチ社のテノール・ギターが正式にデビュー。

1929年、工場の規模が拡大。販売網を広げるため、シカゴのサウス・ワバッシュ・アベニュー226に中西部支社を開設。
この時点ではグレッチ社の総生産に占めるギターの割合は僅かで、主な生産はドラム・ヘッド、バンジョー、ハーモニカ、アコーディオン、シンバル、弦、ピッチパイプであった。

1933年、「Gretsch」をギターのブランドとして使い始める。
フラットトップのアコースティック・ギター「グレッチ・ブロードキャスター」、アーチトップのアコースティック・ギター「グレッチ・アメリカン・オーケストラ」シリーズの生産を開始。

1935年、シカゴにあるグレッチ社の施設をサウス・ワバッシュ・アベニュー529に移転。さらに数年後、同218に拡大移転。

1940年、弦楽器の増産計画の一環として、ベーコン・バンジョー社からB&Dという商標名を獲得。
グレッチのエレクトリック・ラインの総称である「エレクトロマティック・モデル」がスタート。

1942年、グレッチ・シニアが引退。その後10年は銀行経営者として成功を収める。
次期社長には息子のビル・グレッチが就任。

1946年、第二次世界大戦中、グレッチ社はガスマスクなどの軍需物資の生産が中心となり、楽器の生産はわずかとなる。

1947年、グレッチ・ドラムの生産が始まる。

1948年、ビル・グレッチが44歳で死去。グレッチ・シニアのもう一人の息子、フレッド・グレッチ・ジュニア(Fred Gretsch,Jr.)が社長に就任。



1950年、フェンダー社がソリッドボディのエレクトリック・ギター「ブロードキャスター」を発表。
これに対してグレッチ社は、ブロードキャスターの名前が既にドラム・キットに使われていることを理由に名称の変更を要求。フェンダー社は翌年、「テレキャスター」に変更した。

1952年、グレッチ・シニアが死去。
ギブソン社がソリッドボディのエレクトリック・ギター「ギブソン・レスポール」を発表。
これにグレッチ・ジュニアはおおいに触発されたという。

1953年、グレッチ社初のソリッドボディ・モデル「ジェット・シリーズ」を発表。
53年の一年間で2,000本以上を売上げた「ギブソン・レスポール」の成功によって、有名プレイヤーとの契約の重要性を認識したグレッチ社は、偉大なギャロッピング奏者「チェット・アトキンス(Chet Atkins)」と契約。

グレッチ6120ナッシュビル/GRETSCH 6120 Nashville1954年、「6120チェット・アトキンス・ホロウボディ」を発表。
68年頃には「6120ナッシュビル」と呼ばれるようになる。

1955年、「6136ホワイト・ファルコン」を発表。
チーフ・デザイナーでありグレッチ社の改革者ともいわれるジミー・ウェブスターの手によるもので、当時600ドルという高価格で販売された。

1956年、「チェット・アトキンス・ホロウボディ・ギター」を弾くエディ・コクランとデュアン・エディという名の二人のロックンローラーの成功によって、グレッチ社は大きな恩恵を得ることとなる。

1957年、「6122カントリー・ジェントルマン」を発表。
このモデルは6120を発展させたもので、チェット・アトキンスの歌のタイトルから付けられた。

1958年、「6119テネシアン」を発表。のちに「6119テネシー・ローズ」となる。
このモデル名も、チェット・アトキンスの歌のタイトルから付けられた。

1961年、「カントリー・ジェントルマン」「チェット・アトキンス・ホロウボディ」「ホワイト・ファルコン」などのチェット・アトキンス・モデルにダブル・カッタウェイ・バージョンが登場。

1963年、60年代初期のソリッド・ギターの最後となる「アストロ・ジェット」を発表。

1964年2月9日、「エド・サリバン・ショー」に出演したビートルズ。その時ジョージ・ハリスンが手にしていたのがグレッチの名器「カントリー・ジェントルマン」であった。
この放送後1週間で2万本のグレッチが売れたと言われている。

1965年、60年代半ばになると、エレクトリック・ギター・ブームが起こり、楽器業界の売上もピークを迎える。

1967年、グレッチ・ジュニアは引退を理由にグレッチ社をボールドウィン社に売却。
ボールド・ウィン社はオハイオ州を拠点とするピアノとオルガンの製造会社で、キーボードの売上が伸び悩む中、急成長するギター&アンプ部門の獲得のためにグレッチ社に注目していた。

1969年、ボールドウィン社のグレッチ製品の売上が下落。10月には3ヶ月間のストライキに入る。

1970年、ボールドウィン社は54年間続いたグレッチ社のニューヨークの工場部門を、アーカンソー州ブーンズヴィルにある工場施設に移転。

1972年、チェット・アトキンス・デザインのニュー・モデル「デラックス・チェット」と「スーパー・チェット」を発表。
ニューヨークのオフィスを閉鎖。拠点をシカゴ、さらにその後1、2年の間にボールドウィン社の本拠地であるオハイオ州シンシナティに移す。
グレッチ・ジュニアはボールウィン社の取締役となり、デューク・クレイマーはグレッチの販売責任者となる。

1973年1月、ブーンズヴィルの工場から出火。大きな被害を受ける。

1973年3月、41年にグレッチ社に入り、ニューヨーク工場の前製造責任者であったビル・ハグナーが、ハグナー・ミュージカル・インストゥルメンツ社を設立。
ボールドウィン社の同意の下、工場を引き継いでグレッチ・ギターを製造。ボールドウィン社に販売した。ただし、グレッチの商標権は引き続きボールドウィン社が所有していた。

1973年10月、再び工場から出火。大きな打撃を受けたが即座に復旧した。

1981年、ビジネスの拠点をブーンズヴィルの南約800マイル、アーカンソー州デ・クィーンのボールドウィン工場に移す。

1982年、グレッチ社とチェット・アトキンスとのモニター契約が終了。
グレッチ/カスタム社の経営にあたっていたチャーリー・ロイが、ボールドウィン社から同社を買収。このとき、オフィスをテネシー州ナッシュビル郊外のガラティンに移す。

1984年、ボールドウィン社はチャーリー・ロイから再びグレッチの経営権を握る。

1985年、フレッド・グレッチ・三世がグレッチ社の経営権を買い戻す。
彼はボールドウィン社にグレッチ社を売却した時からきっといつか会社を買い戻すことを胸に誓っていた。
フレッド・グレッチ・三世はグレッチ社経営権獲得に綿密な計画を立てていた。
その計画とは、アーカンソー州で1年間ドラムの製造を続けた後にサウス・カロライナ州に拠点を移し、最終的にギター部門を獲得しようというものだった。
この計画にはデューク・クレイマーが重要な役割を果たした。

クレイマーはアメリカのジャスパー・ウッド・プロダクツ社、ビグスビー社、ドイツのミューラー社などを供給会社とし、新しいモデルを生産するための計画書を作成。

フレッド・グレッチ・三世とクレイマーはギターを製造する会社を探し、日本の会社を見つける。
無事契約を結んだ後、現在に至る。


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